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今年も「田舎」に「帰省」しました!!

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 「田舎に帰って釣りをしたんだ~。」「田舎でたくさんカブトムシを捕ったんだ~。」  夏休み明けに友人たちが目をキラキラさせながら話すそんな自慢話を,少年の頃の私は,いつもうらやましく聞いていた。私は鹿児島市内の町中育ち。しかも父方の祖父母は同じ敷地内で暮らし,母方の祖父母は早くに亡くなって,私には夏休みに帰るべき「田舎(郷里)」がなかったから・・・。    そんな私が,三島村が実施するイベントのスタッフとして,夏になると硫黄島や竹島に通うようになったのは今から7年前のこと。少年時代に満たされなかった気持ちがず-っと心の奥底でうずいていたからか,以前から,「田舎」のイメージそのままの「離島」は大好きだったが,毎年足を運んでいるうちに,いつのまにか,三島村の島々は私の心の「田舎」になった。   硫黄島を象徴する硫黄岳。硫黄で黄色く染まったその姿は,荒々しく,猛々しく,800年前にこの島に流された俊寛僧都が感じたであろう心細さを,見た人誰もが簡単に想像できる。しかし,そんな硫黄岳の猛々しい姿とは正反対に,7月21日と22日の2日間,1年ぶりに「帰省」した私を,硫黄島の人たちは,いつものように暖かく,そして自然に迎えてくれた。   全国には,ヨットレースやジャンベなどを通じ,三島村の住民と接するうちに,いつの間にか,三島村に恋してしまった人たちがたくさんいる。国中にたくさんの恋人がいる三島村の住民たちを,私は尊敬の意味を込めて,「女ったらし」ならぬ「人たらし」名人と呼んでいる。   三島村の自然や「人たらし」名人たちに魅せられた私は,来月8月2日・3日には,もう1つの「田舎」である竹島に「帰省」する。  皆さんも,一度,私の「田舎」を訪れてみませんか。  有村智明 2012.7.25 雄々しく,美しい硫黄岳  「人たらし」名人たちの代表 安永区長ご夫妻

碇石(いかりいし)調査

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  碇石(いかりいし)というものをご存じでしょうか。船の碇に鉄が使用され始めたのは15世紀と言われ、東アジアではそれ以前、船の碇は石を利用していました。特に10世紀から14世紀にかけて、東シナ海の交易を担っていた宋元時代の中国船の石製碇は、大きなものは3メートルを超える巨大な石材を左右対称の角柱型に成形したもので、奄美大島では、なんと9本も確認されているのです。日本で発見された碇石は、北部九州、山口から沖縄本島にかけて70余本(一石型)ですから、1割以上が奄美大島にあることになります。  高津は、いま、大木公彦先生(鹿児島大学名誉教授、元鹿児島大学総合研究博物館長、岩石学)、橋口亘さん(南さつま市教育委員会、坊津歴史資料センター輝津館学芸員、考古学)と一緒に碇石の石材調査を行っています。すでに九州各地から沖縄まで40本の調査を終えました。  奄美大島へは、2002年2月に調査に行きました。松 本信光さん(奄美市奄美博物館、考古学)の協力を得ての調査です。最初に調査したのが、奄美市立屋仁小学校校庭でベンチに転用されているもので、全長148㎝の花崗岩製です。子供たちが毎日座って居るのでしょうか、座席に当たる部分が磨いたようにつるつるになっています。 奄美市立屋仁小学校校庭でベンチに転用  次は、奄美市立赤木名中学校裏にある赤木名観音寺跡(1675年創建、1819年移転)にある観音寺開山記念碑で、碇石を石碑として転用したものです。長さは110㎝のアルコース製です。アルコース(arkose)とは、花崗岩が風化・侵食作用を受け分解した後に二次堆積したもので、見た目は花崗岩そっくりで、素人には判別がつきません。高津はこの時初めてアルコースを見ました。 赤木名観音寺跡・観音寺開山記念碑  龍郷町中央公民館の中庭に置いてある碇石も、全長200㎝のアルコース製でした。 龍郷町中央公民館の中庭にて  奄美市立奄美博物館に展示されているものは、全長225cmの凝灰岩製です。もとは電柱に転用されていたものです。 奄美市立博物館に展示  次は、旧名瀬市の個人が所有されている物で、庭の花壇の縁石になっています。全長326㎝の藤色の凝灰質砂岩製で、中国浙江省寧波市の近郊で取れた石材と認定可能です。寧波船が奄美大島にやって来たことを示すものとなっています。 庭の花壇の縁石として個人が所有    奄

人が死なないと梅雨が明けない

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  鹿児島には悲しい言い伝えがある。この言い伝えには、鹿児島が豪雨による土砂災害に見舞われやすいこと、梅雨末期に大きな降雨に見舞われやすいこと、が含まれている。 鹿児島では今年、6月後半に県本土南部で豪雨に見舞われた。幸いにして人的被害はなかったが、土砂崩れや土石流によって大隅半島南部の肝付町のいくつかの集落が孤立するなど、大きな被害が生じた(写真)。そして、この梅雨前線は7月に入って北上し、九州中北部の熊本県や大分県で大雨をもたらして大災害を引き起こした。 7月17日、気象庁は四国、中国、東海、近畿、関東甲信地域の梅雨明けを発表した。九州南部・北部地域は台風7号の接近もあって、まだ梅雨明けの発表がなく、大雨と土砂災害に対する注意喚起が続けられている。まだしばらくは注意が必要なようだ。 さて、私はと言えば、梅雨が明けるまでハラハラし続け、梅雨が明けたら明けたで、現地の調査に入る。そうこうしているうちに台風シーズン。ゆっくり寝られるのは、いつになるのだろうか? 井村隆介 2012.7.18 鹿児島県肝付町白木の土砂災害現場(7/5撮影)

リオ+20 国連会議

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  通称、リオ+20(リオ・プラス・トゥエンティ)の「国連・持続可能な開発に関する国際会議」に参加してきた。リオは、ブラジルで二番目に人口の多い都市、リオ・デ・ジャネイロの略称であり、20は、1992年から数えて20年目の意味。地球サミットの名で親しまれた「環境と開発に関する世界首脳会議」が、ちょうど20年前に同じ“リオ”を会場に開催された。 リオの中心市街地周辺。 高層ビルに囲まれ、昔の面影がわずかに残る風景だと 20年前を知る日本人記者は語っていた  1992年の“リオ” では、地球温暖化にかかわる「気候変動枠組条約」と「生物多様性条約」が調印された。ときは冷戦終結の直後、世界の平和への機運が一気に高まり、画期的な国際ルールづくりが進んだ記念すべき会議だった。リオ・プロセスといって、世界の首脳級があつまる会議に、政府代表団の人員に劣らない、もしくは、それ以上の数の非政府組織(NGO)関係者の参加が、正式に認められるようになったのもこの会議からだ。 公式会場にある、野球場の大きさほどのフードコート(食事広場)には、 本会議の様子を映す大画面が設けられていた   2012年の“リオ”では、6月13日から22日の9日間の日程に、191ヶ国29,373人が集まった(+さらに692人の現地ボランティア!)。このうち政府関係者は、全体の4割の12,250人、残りは、NGOやマスメディアの関係者である。会期中、最後の3日間に行われた首脳級の会議のほか、公式なサイドイベントは498種類、公式会場の外で行われた自発的なイベントは713種類。  いったいそんなに人が集まって何をするのだろう、と疑問に思うのは、「冷戦」を知らない平成生まれの我が学生たちだ。  3万人近い数の代弁は到底できない。だが、一つ言えることは、最後に採択された「The Future We Want」(我々が求める未来)の成果文書をめぐり、政府代表団は当然ながら、大小さまざまなNGOが、ロビー活動(政治家や官僚に対する働きかけ)を行い、少しでも「我が主張」が通るように、ギリギリまでしのぎを削る。その過程を中心に会議は進行するということだ。 公式会場から車で70分、ピープルズ・サミットと呼ばれる第二の会場では、 先住民の権利を謳うデモや露天、各種会合など、市民の祭典と呼ぶにふさわしい  もちろん膨大な約束ごとを数日