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碇石調査・続

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 昨年末に中国に調査に行ってきました。奄美大島でも見つかっている中国製碇石(いかりいし)の石材産地調査です。碇石は、10世紀から15世紀にかけて東シナ海を頻繁に往来した中国外洋船が装備していた木製錨の重しに使用された石で、2メートルから3メートルにも達する直方体の石材です。岩石学の大木公彦先生(鹿児島大学名誉教授)、橋口亘さん(南さつま市教育委員会)と一緒に3年がかりで日本現存の碇石約70点の内、52点(山口県、福岡県、佐賀県、長崎県、鹿児島県、沖縄県、)を調査しましたが、52点中の19点が浙江省の寧波や台州に露出している白亜紀の方岩組地層に由来するものと判明しました。今回は、石材の採掘地で一番可能性の高い寧波近郊の上化山の採石場に調査に行きました。 (写真撮影:橋⼝亘)  高津孝 2013.1.15 上化山は、山全体が白亜紀の凝灰質砂岩の露頭です。 火山噴出物が淡水湖中に堆積したもので、恐竜など生物化石の出る可能性があります。 小さく見える人が高津です。 高津が1.8米ですから、巨大な切り出し口です。 数百年にわたる石材採掘で出来た洞窟の入り口です。 薄く層状に剥離するので、碇石などプレート状の石材採掘は極めて容易です。 懐中電灯を手に、洞窟を抜けて行きます。 近くの集落は、石畳、石塀など全てここで切り出された石を素材にしています。 上化山から北に行ったところにある近代になってからの凝灰岩(梅園石)の石切場です。最近はここの良質な凝灰岩に対する需要が大きいのか、どんどん切り出しが進んでいます。 厚みのある均質な地層です。上化山と異なり、層状に剥離しないのが特徴です。

道なき道を行く「心岳寺詣り」

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 皆さんは,「鹿児島の三大詣り」をご存じだろうか?  1つは島津忠良の菩提寺に詣る加世田日新寺詣り。もう1つは島津義弘の菩提寺に詣る妙円寺詣り。そして,3つ目は島津歳久の菩提寺に詣る心岳寺詣りである。しかし,「お詣り」とは言っても,実際は,夜を徹して,決められた時間内に長距離を徒歩で移動する軍事教練的な意味合いが強かったらしい。  このうち妙円寺詣りが最も有名で,私も小学生と高校生の時に経験したが,昨年11月23日に,鹿児島市吉野地区のNPO法人「地域サポートよしのねぎぼうず」等が主催する心岳寺詣りに初めて参加させていただいた。 寺山公園展望台から錦江湾と桜島を望む。 改めて鹿児島の大自然に惚れ直す。  島津歳久は,第15代薩摩国守護職島津貴久の三男で,義久,義弘の弟。  第16代当主の義久は豊臣秀吉の九州征伐で降伏したが,歳久は秀吉に対する反抗的な態度をやめなかった。これを不服とした秀吉は,1592年(天正20年)6月に勃発した梅北国兼の乱の首謀者を証拠の有無を問わず歳久であると決めつけ,義久に歳久の首を献上するよう命じ,歳久は磯街道の平松で自刃。義久が歳久を供養するために建てたのが心岳寺で,廃仏毀釈で1870年(明治3年)に寺号を廃し,現在の平松神社となった。  心岳寺詣りは,戦前まで,歳久の命日である7月18日に行われていたが,今回,私が参加させていただいたのは,戦後,廃れていたこの行事を同NPO法人等が7年ほど前から復元させたもの。  当日の参加者数は約100名で,開会式の後,9時20分に寺山ふれあい公園を出発。約25分をかけて心岳寺参りの実質的なスタート地点に到着。そこに設置された鐘を叩き,道中の無事を祈った後,昨年10月の別のイベントの際にちらりとのぞいたときには,草や葛が生い茂り,全く道の体をなしていなかった山道に突入し,いよいよ吉野の山から竜ヶ水までの心岳寺詣りのスタートとなった。 心岳寺詣りのスタート地点に設置された鐘など。 ここからいよいよ急峻な山道に突入する。  このお詣りコー スは,生い茂る木々がなければ,目がくらんでとても降りられないであろうと思われるような急峻な山道を下るもので,私が今までの人生の中で経験したことのなかったようなコース。それに加えて,前日降った雨の影響で,足下は滑り,NPO法人等の皆さんがロープを張ったり,アシストに立った