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「死滅回遊魚」に恋して

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 幼い頃から,水のある風景と,そこに棲んでいる生き物たちが大好きだった。   小学生の頃は,学生運動が盛んなとき,ヘルメット姿のお兄さんたちがゲバ棒を手に殺気立って行き交う中を,網や釣り竿を片手に,本学の「ヒョウタン池」(子どもの頃の俗称。正式には「玉利池」という名があるらしい。)に通い,鯉の幼魚やメダカを捕った。   中学生の時は,当時,ボウフラ対策のために鹿児島市が放流したグッピーを捕るために,通りがかりのおば様たちの「捕ったらダメなんだよ~」の声もどこ吹く風で,天文館のど真ん中の「清滝川」という名前だけ美しいドブ川の中を1日中走り回った。   高校生になると,台風による増水で養魚場から逃げ出した錦鯉の幼魚を釣るために,10km以上も離れた谷山の川まで毎週のように自転車で出かけた。    そして,大学生になり,初めて手にしたアルバイト代。当然のように,今まで手にできなかったヒーター付きの水槽セットを購入し,以来30年余り熱帯魚の飼育を続けてきた。 坊津の展望台の目の前に拡がる青い海。 ふと,何とかして海の中で暮らせないものかと考える。  そんな私が6,7年前からはまっているのが,「死滅回遊魚」の採集と飼育。   夏になると,南方系の魚の卵の一部が黒潮にのって北上する。北上する間に卵は孵化し,運良く磯などに流れ着いた者だけがそこで成長できる。しかし,もともと南方系の生き物である彼女たち(美しいのでこう呼んでいる)は,冬になり,水温が20度を大きく下回る頃になると,寒さに耐え切れずに1匹,また1匹と死んでいく。そんな彼女たちは「死滅回遊魚」,こうした現象は「無効分散」と呼ばれている。   私を海へと誘(いざな)った小さなタイドプール。 この場所で,数多くの「彼女たち」と出会った。  私が初めてその仲間のトゲチョウチョウウオの幼魚と出会ったのは,串木野の小さなタイドプール。偶然,網に入った彼女に一目ぼれし,家に帰ると大急ぎで水槽を海バージョンに変更。その日から,「死滅回遊魚」たちとの生活が始まった。  それからというもの,夏場の週末には,タイドプールや漁港,磯を舞台に,短パンにビーチサンダル,あるいはウエットスーツに身を固め,長短3種類6本の網を使い分けながら,彼女たちを追いかける生活を送っている。 スミツキトノサマダイの幼魚。 今年初めて行った場所で出会った,今年

徳之島見聞録2 闘牛・崎原集落編

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 11月にお世話になる、徳之島屈指の闘牛士、基山初男さん宅を訪ねた。基山家は、祖父の時代から3代続く、全島一横綱(重量無制限の闘牛チャンピオン)を育て上げた名家。徳之島の闘牛は有名だが、大きな大会は年3回。横綱3代の血統で育て上げた基山大宝は、3000人規模の観客を前に、ひと睨みで相手の牛を追い払う凄みを備える。初男さんの話によると、闘いをするたびに迫力が増してきたのだとか。 基山さんのお宅の仏間には、親子三代の優勝旗やトロフィーが所せましと並ぶ。 すぐ隣に住む得岡誠二郎さん(85歳)が、 基山大宝が優勝するたびに、直筆で短歌を送り続けている。  基山家のある崎原(さきばる)集落は開拓の村。わずか40~50戸だが、町内で農業生産は一位、教育長は3人輩出してきたという。日々の労働の延長に、なぐさみとして闘牛が行われてきた。今のような形で闘牛が持たれる様になったのは昭和28年で、祖父の時代からだという。  初男さん自身もそうだが、生まれた時から牛がいる。そこには到底語りつくせない、牛との思い出、家族との思い出、地域との思い出がぎっしり詰まっている。闘牛は、今でも子どもたちの憧れで、遊びはもっぱら闘牛ごっこ。  若者の自分探しが語られて久しいが、徳之島の強さは、すぐ身近なところに夢とロマンがある。そしてそれを実現させてきた大人が身近にいる。  ただ一方で、昭和56年頃までは、崎原集落にも闘牛が50~60頭がいたが、今は戸数にするとわずか3戸。後継者も少なくなってきているという。徳之島の闘牛文化を今後どのように受け継ぐのか。そんな岐路に立っていることを知った。 初夫さんに得岡誠二郎を紹介してもらった。 現役教員時代は、闘牛には全く興味がなかったが、基山大宝と出会って一転。 闘牛は人の心を動かす。貴重な自伝を頂戴した。 子どもたちに大人気の基山大宝のタオル。 200枚用意するがあっという間になくなってしまうそうだ。 下は、オリジナルの基山大宝のポスター 小栗有子 2012.10.2

徳之島見聞録1 食編

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  夏休みもあっと終わり、今日から授業が始まりました。駆け込みで、9月下旬に奄美群島・徳之島に行ってきました。  鹿児島空港を出て、まずは薩摩半島と大隅半島を抜けて、空中を飛ぶこと1時間。 久しぶりに空港に着いたら、いつのまにか「子宝空港」という名前になっていた。なんといっても徳之島の出生率は、伊仙町(全国1位)、天城町(全国2位)、徳之島町(全国3位)と3町がトップ3位を独占(平成17年度国勢調査)しているのだから納得だ。話に聞くところ、県外者の命名だとか。 手前が薩摩半島で、左に池田湖、右に開聞岳。奥は大隅半島の先端、佐多岬 空港を出たところで迎えてくれたのは、民謡日本一の島の看板。  今回の徳之島訪問は、11月に実施予定の大学院授業の実習(合宿)視察・打合せが主な目的。鹿児島環境学のメンバーで去年から担当している。今回多い日で1日に6か所訪問、話を聞いた人実に11名。2泊3日で総勢では20人代後半をマーク?ディープな滞在だった。 一緒に行った岡野氏が絶賛した、地魚を使った、ひじきのバターソース レストランの従業員。草刈りをする働き者。  伊仙町・阿権(あごん)集落に入ってすぐ、9月にオープンしたばかりの島のレストラン「まぶらってぃ」(※ご先祖様に見守られて、と言う意味)に立ち寄った。島の食材を利用した現代風の料理がポリシー。島出身のシェフの鶴洋一郎さんが関西の奥さんを連れて戻ってきた。その奥さん、客の前でみごとな三味線を披露してくれた。 茶屋「寄る辺」セット。祝い善5点にあやかって、 左上から島の野生みかん・ヤマシークンニのゼリーのドラゴンフルーツソース添え 、ドラゴンフルーツ入りヨーグルト、団子と小豆、ごぼうの煮つけ 「寄る辺」の正面にあるこんもりとした屋敷跡の森。 『世界の森大図鑑』を編纂した山田勇先生が 「前の森を大事に」とメッセージを残してくれたそうだ 子どもの健やかな成長を願って、 初稲わらで編んだ幼児用の草履を昔は履かせたという。 地元のおじいちゃんのお手製 店内に飾ってあるほとんどのものが、 お客さんからの頂き物など思い出の品。 シーサーも沖縄からきたお客さんが届けてくれたもの