地域おこしと「ものがたり」

 素晴らしい自然や風景があっても、なかなか人は振り向いてくれません。何かそこに「ものがたり」的要素が無いと、人を引きつけることは難しいという点があります。

 沖縄本島の中部に位置するうるま市は、世界遺産の勝連グスクに加え、太平洋側に浮かぶ4つの島が海中道路で結ばれているという素晴らしい観光資源を有する地域ですが、残念ながらこれら優れた要素を結びつける「ものがたり」を欠いていました。

 ところが、そこに『伊計島遊草』が出現したのです。『伊計島遊草』は、最近発見されたばかりの琉球人漢詩集です。琉球末期の漢詩人蔡大鼎(1823-84以降)によって、那覇からうるま市の伊計島までの旅の途次、道中の名所旧跡が漢詩30首に詠み込まれています。うるま市内に関するものが20首あり、勝連グスクほか幾つのも名所や島々の風景が印象的に描写されており、まさしく、うるま市が欠いていた「ものがたり」を提供するものとなっています。高津は今、うるま市の依頼を受けて、『伊計島遊草』の全訳を準備しています。2月にはうるま市で一般市民向けの講演も行いました。自分の住み慣れた地域が詩歌に詠まれているということで、勝連地区や伊計島を始め地域の方々にはたいへん好評でした。

 高津は、沖縄をフィールドにしてもう20年になりますが、書物を調べる調査なので、沖縄に着くとすぐに薄暗い図書館や博物館に入り、そこで一日中籠もって調査をします。したがって、明るい日中の沖縄を見ることはあまり多くありませんでした。ところが、この機会にうるま市の担当者の方と、蔡大鼎が通った道を、那覇から伊計島まで約50キロ、あらためて旧道や名所を確認しながら回りました。今はもう失われてしまった旧跡や位置の確定できない場所、米軍基地の中にあり入ることの出来ない場所、埋め立てが進んで当時の面影もない場所など、美しい風景とともに150年あまりの沖縄の変化を感じるものでした。

高津孝 2013.4.10

図1. 『伊計島遊草』に詠まれた地点(グーグル地図)


図2. 那覇の中心地にある明倫堂跡地に立つ孔子像。
蔡大鼎は、先祖が中国から来たと伝えられる久米村の出身です。
琉球と中国との外交、貿易関係は、久米村の人々によって支えられていました。
明倫堂は久米村にあった学校で、蔡大鼎もそこで教えていました。
旅の出発点は、蔡大鼎の家のあった久米村です。


図3.浦添ようどれの説明板。
13世紀の琉球王の墓。左下が現在の様子。
整備が行き届き、以前見たものとのあまりの違いに驚嘆。


図4.当山の石畳道。
浦添ようどれ近くの旧道。
よく保存されている。蔡大鼎がたどった道。


図5.世界遺産「勝連グスク」(利用申請中)

図6.左が、勝連半島の北側の屋慶名の港。
ここから平安座島(へんざじま)に舟で渡ったと思われる。
向こうに見えるのが海中道路で平安座島につながる。
手前の橋は、藪地島に渡る橋。

図7. 宮城島(みやぎじま)の池味(いけみ)山から、
伊計島(いけいじま)を望む。

図8. 伊計グスクから宮城島を望む。
伊計グスクは、山頂への上がり口が海中にあるので、
3月の大潮の時期を選んで、干潮時に登りました。
草が生い茂り、ナタで道を切り開きながらの登山です。
冬なのでハブの心配はなかったです。