カクレと多様性

 
生月島黒瀬の辻殉教碑

 先週、学会参加のため長崎を訪れた。学術大会ののち18日に、学会の企画として生月・平戸のカクレキリシタン関連の見学に出かけた。平戸といえば、開通して便利になった九州新幹線を使っても、鹿児島中央からゆうに5時間は掛かる場所。しかし、1543年(天文12)にポルトガル人が種子島に漂着したわずか7年後の1550年(天文19)からの十年あまり、平戸は対ポルトガル交易(南蛮貿易)の港として栄え、1549年に来鹿したフランシスコ・ザビエルも翌年には平戸での布教を試みている。つまり、船の時代には鹿児島と海路(回路)で結ばれていた土地であった。時間に縛られ、移動といえばもっぱら陸と空に頼ろうとする現代人の盲点である。

  その後の豊臣・徳川によるキリスト教の弾圧・禁教政策ののち、この地域のキリシタンたちは、「お神様」の「お掛け絵」を納戸に祀り、権力から隠れて信仰を維持してきた。生月の離れ小島である中江ノ島は、数名の殉教者を処刑した場所で聖地とされているが、島南面の断崖からしみ出る「お水」は聖なる力を宿すと考えられ、洗礼などに活用されてきている。
 
  ところで、鹿児島で「カクレ」といえば、かくれ念仏である。島津藩はキリシタンばかりでなく、一向宗(浄土真宗)も禁止していた。カクレキリシタンの納戸神と同様、納戸柱に本尊の阿弥陀仏を隠していたという事例もあるが、圧巻はガマや盗人穴と呼ばれる洞窟や岩屋での念仏行である。

  中江ノ島の断崖といい、かくれ念仏のガマといい、「よくもまあわざわざこんな場所で」と感じるのは不信心者の浅はかさか? ただ、信仰者の情熱とともに感慨を誘うのは、たとえ彼ら・彼女らの信仰を当時の権力が容認していなくとも、こうした自然の景観や地形のほうはそれを許容し、その奥深さのうちに受け入れてきたという事実である。そうした意味では、自然環境は生物の多様性ばかりではなく、信仰の多様性のゆりかごともなってきたと言えるのではないだろうか。 
 西村明 2012.6.25